もう二度と別れを告げることなどないと思っていた。
一本木で潔い!
その生き様に共感し、魅了されてきたからこそ、こちらはその選択を受け容れざる得なかった。
右耳の不調と苦闘すること9年。
そしてその果て、つまり昨晩、35年間というキャリアに幕が引かれた。
2016年5月21~23日
“KYOSUKE HIMURO LAST GIGS ”
その中日、二度目の別れを告げるため、東京ドームに足を運んできた。
一度目は1988年4月、BOφWY解散の時だった。
あれもこの東京ドームだった。
ライブ活動無期限休止
事実上の引退

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氷室京介さん
マイルス・デイビスを永遠のアイドルとしているボク=営業企画室長の高橋が、唯一真剣に耳を傾けたボーカリスト。
群馬出身の男が三人
福島出身の男が一人
それでも、BOφWYが新宿の小さなライブハウスから全国へと駆け上がった、否、勢い日本のロック史を塗り替えたのかと思えば、新宿で産声を上げたボクが、近隣地域のティーンエイジャーの憧れの的だった彼らを無視して通る訳にはいかなかった。
彼らの人気に呼応して熱狂的に巻き起こったバンドブームの渦中、曲を作ることが出来たことで、知り合いのバンドに楽曲提供を依頼されたとほぼ同時に、そのサンプルとして彼らを知り、ボクもその渦に身を委ねることになった。
歌といえば、「ハナ肇とクレージーキャッツ」くらいしか聞かなかったボクに、改めて詩歌を通して如何に人が人に勇気を与えられるかを教えてくれたのが、ヒムロックこと氷室京介さんに他ならない。
特に長距離通勤を強いられた社会人成り立ての頃、ウォークマンと呼ばれていた、カセットテープ時代のポータブル音楽プレーヤーにより随分と励まされた。
パンクを基としているヒムロックの歌唱スタイルは、メロディーよりビート感を重要視しており、そのスタイルはそのまま、一足飛びに先行くことや要領よく立ち振る舞うことを是としない直向きさの表れだと確信して疑わない。
ドラムを打ち付けるかのような、あれだけ激しいシャウトを、これほど長く続けていたら、そりゃ体の何処かしかに不調が表れても一向に可笑しくない筈だ。
だからこそ心震わせられてきたのだろう。
ありがとう!
これまでと何ら変わることのなかった笑顔のヒムロックは、大挙して押し寄せたボクらに、清々しいまでにきっちり頭を下げた。
こちらこそありがとう!
そうとしか返しようがなかったボクにとって、その言葉が二度目の別れの台詞となった。
三時間にも及ぶ長いライブが、まるで束の間の夢、一瞬の出来事のようだった。
最後の最後までカッコよかった!
男らしくもさっぱりしていた!
マイクを構えるヒムロックの姿を、もう二度と見ることが出来ないことは残念ではあるも、会場を出ると、まるでヒムロックの新たな人生の門出を寿ぐかのように、優しい光で満たされ、見事まんまるに膨らんだ月天子が、ボクらとともに東京ドームに駆け付けていたかのように感じられてならなかった。

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さよならヒムロック
誰人の人生も、何時だってまだまだこれからだよな?
さよならヒムロック
こちらこそありがとう!